スギヨ

SUGIYO PRESENTS

小さなヒーロー

黒部ダムとビタミンちくわの知られざるつながり

Prologue

プロローグ

黒部ダムから掛かった
一本の電話…

石川県七尾市にあるスギヨに長野県大町市から一本の電話が入った。
「黒部ダムのレストハウスで、ビタミンちくわを使った復刻メニューを出したいと思うのですが…」

黒部ダム?
どうして復刻メニューにビタミンちくわを?

すぐに飲み込めないスギヨ社員に、電話の主でダムの観光部門を管轄する関電アメニックス くろよん観光事業部の柏原清さんが説明した。
「それは、黒部ダムの建設当時に…」

柏原さんによると、元建設作業員に当時の思い出を聞いたところ「ビタミンちくわが入ったカレーの味が忘れられない」と、80代の3人が口をそろえて答えたという。過酷な現場で娯楽もない中、唯一の楽しみは食事だった。中でも週1回出されるちくわカレーは一番の人気だったという。

この電話をきっかけに、スギヨ社員ですら知らなかった事実が明らかになっていく。
驚異のダム建設を果たした偉大なヒーローたちと、その裏で彼らの胃袋を支えた小さなヒーロー、ビタミンちくわ。2022年、ビタミンちくわ誕生70周年の節目に、両者の知られざるつながりを辿る物語が始まる。

Movie

「小さなヒーロー」

STORY

2021年10月、黒部ダムの玄関口・扇沢(長野県大町市)に、かつての建設作業員、ちくわ職人、調理人、登山ガイドらが集まった。何の接点もなさそうな5人だが、実は本人たちも意識しないところで長い間共有していることがあった。

黒部ダムとビタミンちくわに関する「歴史」「人」「食文化」をキーワードに、つながりが生まれて70年近く経った今、5人は奇跡のような巡り合わせの下で初対面を果たした。思い出を語り、共に「ビタミンちくわカレー」を味わった5人。それぞれの胸に、どのような思いが去来したのか。

黒部ダムとビタミンちくわの知られざる

3つのつながり

01/時代

1956年着工の黒部ダムと
1952年発売のビタミンちくわ

黒部ダム
(黒部川第四発電所・通称くろよん)

黒部峡谷は水力発電に非常に適しているとされながら、過酷な自然環境に阻まれ建設は実現しなかった。しかし、戦後の復興期から高度経済成長時代にかけ、電力不足が深刻化し社会問題となった。関西電力は背に腹は代えられないと、前人未到の地に巨大なダムを建設するという「世紀の難工事」に挑んだ。大町トンネル掘削工事では大量の地下水と土砂が噴き出す「破砕帯」に苦しめられ、約80メートルを進むのに7か月かかった。建設に関わったのは延べ1,000万人。1956(昭和31)年の着工から7年で完成させた。現在でも年間30万世帯以上の家庭で使うのに相当する電力量を発電している。

作業員の前に立ちはだかった大町トンネルの破砕帯。
約80メートル進むのに7か月を要した

1957(昭和32)年1月25日の熊谷組の食事風景。
バケツに入った汁物から湯気が上がる

黒部川上流沿いの断崖絶壁に延びる日電歩道。
1925(大正14)年ごろ、黒部開発の調査のため測量隊
(写真左上)が列をなして歩いた

ビタミンちくわ

大正時代、能登でサメが大量に水揚げされるようになった。しかし、サメを食べる習慣がなく、網を切られてしまうので厄介者だった。そこで気仙沼から職人を呼び、ちくわを製造することにした。その後、サメの肝油にはビタミンが豊富に含まれることがわかり、1952(昭和27)年に「ビタミンちくわ」として発売すると、戦後の栄養難の時代に手軽に栄養が摂れるとヒット商品になった。七尾港から直江津港まで船で運び、荷馬車に乗り換えて石川から長野まで運ばれた。現在も石川産の「長野のソウルフード」として、生産量の7割を長野で食べられている。

ちくわを炭火で焼く職人。
同時に木箱を乾燥させて保存効果を高めた

1960(昭和35)年。
かっぽう着姿で機械を操作する従業員

1本1本手作業で紙を巻き、木箱に詰める
右:原料となるアブラツノザメを持つ従業員

02/人

この道50年

ダム一筋50年

高橋秀夫さん(78)

元 間組 機械オペレーター
/長野県大町市

幼いころの夢は大きな重機を運転すること。1961(昭和36)年、「黒部ダム建設に携わりたい」と間組に入社、同年から黒部ダム建設に従事した。当時は現場で最年少の18歳。コンクリートを運ぶディーゼルカーなど、ダム建設に関わるあらゆる機械を操縦し、第一線で活躍。その後も国内外のダム建設に携わった。1998(平成10)年の長野冬季五輪では圧雪車のオペレーターとして、モーグルのコースなどを造成した。

「仕事に惚れた」

ゴムの合羽を着て雨風吹きさらしの中、重機に乗りました。型枠にコンクリートを流し込む量は、当時の世界記録でした。作業員は三交代で、建設作業は24時間ぶっ通し。戦場のような所で、宿舎に帰れないこともありました。誰に指示されたわけでもありませんが、仕事に惚れて、完成まで何とか頑張ろうと一般的に考えられないような情熱があったんだと思います。

ちくわ一筋50年

松井十九一さん(77)

元 スギヨ ちくわ職人
/石川県七尾市

1959(昭和34)年、中学卒業後15歳で入社。気仙沼の職人と競いながら、ちくわの原料となるサメ肉の処理などを行った。独学で水産加工を学び、後に製造本部長などを歴任。1996(平成8)年、上皇上皇后両陛下(当時の天皇皇后両陛下)の行幸に際し、会長の杉野芳人(当時)と共に案内役を務めた。HACCPによる工場の衛生管理を導入したり、ギネス認定を目指し400kgのちくわ作りに挑戦したりした。

「ビタミンちくわは私の人生」

ちくわを通していろいろな経験や出会いをいただきました。ちくわ一本で50年。ビタミンちくわは私の人生そのものです。今でも生産量の7割を食べていただいている長野の方々には感謝しかない、心の友です。黒部ダム建設でビタミンちくわが食べられていたことは今回初めて知りました。石原裕次郎さんのファンで映画「黒部の太陽」も見ていたし、非常に驚きました。

02/人

長野県で愛されるちくわ

元調理人・郷土料理研究家

長嶌勇次さん(83)

元 調理人 郷土料理研究家
/長野県大町市

20代のころビタミンちくわを入れた木箱を背負い、塩丸いかと一緒に売り歩いた。黒部ダムの完成後、関連の「扇沢駅大食堂」で調理人として働く。現在は、郷土料理研究家として長野の食文化の伝承に努める。今回、ダム建設当時のカレーに思いを馳せながら「ビタミンちくわカレー」を調理した。

「長野の食文化に欠かせない」

長野県は冠婚葬祭やお祭りに、必ずちくわを使ったお料理が出ましてね。5本だ10本だって、多い人は箱ごと買っていきました。ちくわは長野の食文化には欠かせない家庭の味です。これからもこの文化を広げていったら面白いと思います。ダムの現場へは肉を運ぶのが難しいため、保存がきくちくわが重宝されました。肉はなくとも、お腹いっぱい食べてほしいという調理人の思いがあったのでしょう。

長野県民

白澤禎介さん(81)

元 登山ガイド
/長野県北安曇郡松川村

白澤富貴子さん(78)

ちくわレシピ多数
/長野県北安曇郡松川村

登山ガイドをしていた禎介さんは、山小屋で出すカレーに入れるため、ビタミンちくわが入った木箱を担いで山を登った。到着すると「今日のカレーはちくわ入りだぁ!」と喜ばれた。ちくわがごちそうだったという富貴子さんは、幼いころ近くに肉屋がなくちくわは肉の代わりだった。身近な食材として、家族のため50年以上ちくわ料理を作ってきた。

「使わない料理はあまり出ない」

冷蔵庫や冷凍庫にちくわがない日はありません。ちくわを使わない料理というのはあまり出ないですね。魚よりも食べることが多いので、もう日常生活の中に溶け込んだ存在です。ちくわの磯部揚げ、ちくわの味噌汁、ちくわの炒め物、ちくわの酢の物、そのままのちくわ。同じ日の食卓にこれぐらい並んでいても特に多いとは思いません。野菜と同じ感覚かな。

Epilogue

エピローグ

長野のとある小学校。給食時間を知らせるチャイムが鳴ると、大きな口でビタミンちくわカレーを頬張る子どもたちがいた。普段は肉入りのカレーを食べる現代っ子たちも、食育の時間に「黒部ダムとビタミンちくわの関係」を学んだ後とあって、興味津々の様子。「初めて食べたけどおいしかった」と笑顔を見せた。

子どもたちの両親、祖父母の時代から親しまれてきたビタミンちくわ。これからも新しい世代の成長を見守り、食文化を伝える「小さなヒーロー」でありたいと、今日も明日も思いを込めて作り続ける。

ビタミンちくわ誕生
70周年記念映像(2022)

撮影
畔上広行
伊藤達哉
照明
森山雄太
録音
若林優也
制作
あびはるな
編集
月原康智
監督
長峯亘
撮影協力
柏原清(株式会社関電アメニックス)
資料提供
株式会社関電アメニックス
製作
株式会社スギヨ
関西電力「世紀の大工事」
~くろよん建設ヒストリー~
黒部ダム

ビタミンちくわ関連サイト

70周年記念サイト
70周年記念サイト